澤口 忠左衛門の紹介

       澤口 忠左衛門
       澤口 忠左衛門

 澤口忠左衛門(さわぐち ちゅうざえもん)は1902年(明治35年)2月22日仙台市河原町に澤口家の次男として生まれた。長男が幼逝し他に兄弟がいなかった為、一人息子として大事に育てられた。澤口家の初代は享保10年(1725年)創業の「佐藤屋」という呉服・小間物商で大いに栄えた。その後、苗字帯刀を許され店名を「澤口屋」と変える。当時、4代横綱・谷風がよく訪れたことでも有名な店であったという。忠左衛門は数えて8代目の当主であるはずだったが、生まれる直前に店は倒産してしまった。この影響で住居は転々と変らざるを得ず、彼は高等小学校を卒業後、東北実業銀行(のち七十七銀行に併合)に入行する。父は駒吉といい「鳴海屋」という紙問屋の大番頭となっていたが昭和の初め、市内荒町165番地の土地を主家から譲り受け一家で移り住んだ。忠左衛門は、勤めを終えて帰宅するとすぐ机に向かい読書する毎日で、書棚には夏目漱石、武者小路実篤の「白樺」、をはじめゲーテ、トルストイなどの文学書や哲学書、さらに内村鑑三の宗教書に至るまで並んでいた。また語学習得に熱心で、ドイツ語を個人教授で習いカントの「純粋理性批判」、ニーチェの「ツァラストラは斯く語りき」を原書で読んだほか英語、スペイン語、イタリア語にも通じていた。18歳の時”杜 一私”のペンネームで朝日新聞社の漱石に関する懸賞論文に応募し入選し文才のほどを示した。また、彼は初めハーモニカを吹いていたが、仙台で手島勇氏よりヴァイオリンを習い、次いで1920年に仙台で慶應マンドリンクラブの演奏会を聴き、マンドリンに魅せられ、独学でマスターする。このマンドリン熱が昂じ、1924年(大正13年)22歳の時、マンドリン合奏団『仙台アルモニア』を結成した。そして、1927年(昭和2年)『アルモニア』を創刊した 。『アルモニア』ははじめ合奏団の機関誌として出発したがまもなくマンドリン・ギターの研究誌としての性格を強めていった。

 当時の日本ではマンドリン合奏が盛んに行われ、その伴奏楽器としてのギターを愛好する人々がマンドリンに付随する形ながら、徐々に増え始めていた時期だが、ギターの演奏技術や知識の面ではまだ揺籃期であった。澤口はそうした中でスペイン・ドイツ・イタリア・アメリカ・アルゼンチン・キューバ等海外から教本、曲集、専門雑誌、レコード、更には楽器に至るまでマンドリン、ギターに関する膨大な音楽資料を集め、僚友高橋 功らと共に『アルモニア』を通じて国内外に紹介した。特筆すべきは、当時マンドリン・ギターの先進的な活動を誇っていたドイツ、オーストリアとの交流を深め、当時の世界一流のプレクトラム文化を日本でいち早く紹介したことである。

 澤口忠左衛門は、マンドリンやギターの楽譜出版や楽譜・楽器の取次ぎ、海外文献の紹介、さらに論文執筆をはじめ作曲・編曲と次第に活動域を拡げていき、楽譜・文献の貸出や写譜サービス、さらには梱包から発送までと超人的な働きを成した。彼はこれらの事業を銀行勤務しながら、また病を抱えながら全て実行した。高橋功氏によれば、彼の音楽に対する類まれな奉仕の精神は、若い頃読んだ内村鑑三より受けた影響が大きいという。

 そして、澤口は研究誌『アルモニア』を当時、日本でもっとも内容が充実していると評判をとるほどのマンドリン・ギターの専門雑誌に育て上げた。

 昭和10年澤口は腎臓病で大手術を受け生死の境をさまよった。翌年『アルモニア』は十周年を迎え、全国の関係者から大きな祝福を受けたが、これを機に健康を考え、合奏団での指導・演奏から徐々に身を引いてゆき『アルモニア』での様々な事業に専念することとなる。しかし『アルモニア』は1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発により国策に協力する形で、89・90号(合併号)を以って無期限休刊となり事実上の廃刊となった。『アルモニア』 最終号の編集後記には「――とにかく一応アルモニアの使命は果たしたようなものである――」と記されている。休刊後、武井守成と諮り連絡機関を兼ねた小冊子を出すが、戦争の激化と共に時代が許さず、それも取りやめとなる。

 彼は昭和17年にも持病が再発したが、大病に倒れた後でも夜おそくまで編集や来信処理等の仕事を続けた。病と闘いながら清美夫人と共に、残された膨大な音楽資料を守ることに文字通り命を賭した。戦局はますます窮迫し、台湾に貸し出していた楽譜が米軍の攻撃で船が撃沈されて沈み、返ってこなかったこともあった。収蔵していた資料も仙台の自宅での保管が危険な状況になったため、黒川郡大衡村と加美郡鳴瀬村の2ヶ所に疎開した。疎開先には膨大な資料を家財道具よりも先に運んだという。

 1945年(昭和20年)8月に終戦となり、12月までには疎開していた資料が戻ってきた。しかし、忠左衛門の体力は日毎に衰えが目立ち、せっかく戻ってきた楽譜や楽器に、ちょっと手を触れただけであった。それから半月経った1946年(昭和21年)1月11日、彼は志なかばでこの世を去る。享年45歳。墓碑は仙台市太白区の瀧澤寺にある。 

 澤口 忠左衛門は主にマンドリン曲を20数曲作曲している。現在、マンドリン合奏曲12曲、マンドリン独奏曲3曲、マンドラ独奏曲1曲、ギター独奏曲2曲が知られており、他に、整理中であるが、作品番号のみで曲名が不明なもの6曲、曲名のみのものが3曲ある。資料の整理が進めば作品はまだ増えるものと思われる。 (文責 湯下節男)

 【参考文献】

 ☆「亡き父の想い出」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・澤口 衛/Frets 3巻4号,1960.

 ☆「沢口忠左衛門小伝」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・首藤 徳三/(同上)

 ☆「澤口 忠左衛門傳――清美夫人に捧ぐ」・・・高橋 功/ギタルラ No10,1950.

 ☆「にっぽん ぎたあ史(十)」・・・・・・・・・・・・・・・・ 小西 誠一/現代ギター No.23,1969.

  ☆「私とギター」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高橋 功/1983.9.

 【『アルモニア』最終号編集後記――全文】

 「遂に休刊となった。最終号として八十九・九十号の合併号を編輯した。満十五年、其間様々な思出に満されて居る。とに角一応アルモニアの使命は果たした様なものである。何時の日か又誌友と共に語る時があると思う。編輯は休刊号でも別に変らない。たゞ中途に断絶する稿に心残りがあるが、これは別に機会を持つ心算である。本号寄稿家のみならず、創刊以来本誌に陰に陽に後援された方々又誌友諸氏に厚く感謝して止まない。吾等の音楽はもう深く根差して居る。あとは力強く生長するだけである。吾等の成長は誌が休刊しても変らない。終刊に際し誌友名を掲出した。(澤口 生)」

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