『アルモニア』拾い読み                  湯下 節男

                           第ニ巻 【第13号~第24号】

「雑録」より

     今号より楽譜添付を始める」

     昭和4年度『アルモニア』の年会費は2円(送料とも。年6号発行)。

 【1929・S4・第13号】

     当時の米の値段10キロで2円~2円50銭なので、年会費2円は平成23年現在で換算すると凡そ5,000円前後か。

◇「国際マンドリン音楽聯盟(ドイツ・ベルリン)へ報告文」に宛てて

  <要約>日本国内での斯界専門出版物として、「マンドリン・ギター研究」(オルケストラ・シンフォニカ・タケイ/東京)、「マンドリン・ギター評論」(R.M../東京)「アルモニア」(仙台エストゥディアンティナ・アルモニア/仙台)の3誌があることを報告している。【第13号】

     この内、R.M.G.はまもなく廃刊となる。当時も今も如何に出版事業が難しかったかがわかる。ましてマンドリン・ギターの専門誌を標榜すれば尚更であったろう。

     武井守成によれば、『マンドリン・ギター』と『アルモニア』が日本の二大ギター専門誌であるという。両誌は研究・感想・紹介・翻訳の4点で方向が一致するし加えて『アルモニア』はギター曲の販売・楽器の取次ぎ、また写譜サービスと多彩であった。

     フリッツ・ヴェーク著『演奏会楽器としてのギター(二)』より

―――マウロ・ジュリアーニの息子で名は同じくマウロ・ジュリアーニはウィーンよりペテルスブルグを経て上イタリアに入り、ギター及び声楽教師として長くその地に留まっていた。また、マウロ・ジュリアーニの娘、ジュリアーニ・グリエルミは1840年欧州諸国を演奏旅行した。

   ―――ギターは、オーケストラと室内楽の進歩、数多くの大曲の演奏発表とによる

   推移と共にソル(1839没)・ジュリアーニ(1840没)以後ほとんど優れた

   作曲家を出さず、時代に満足すべき作品がなかったために次第に下火になった。

―――1824年の『ウィーン音楽時報』に「人がギター演奏会を好んだ時代は過ぎ去った。」【1929・S4・第14号】

     この時期を第1期ギターの黄金時代と呼ばれるが、その後この第1期に相当する第2期、第3期~などが存在したのであろうかという疑問が残るものの、優れた奏者、質の高い作品、楽器の秀れた機能、大衆の支持、これ等が揃えばどんな楽器でも隆盛すると編集子は愚考する。“第1期”にはこの要素がすべて打ち揃ったのだ。

     『オーストリア・ギター時報』誌に掲載されたオランダのギタリスト、ピエール・ファン・エスのプジョール訪問記より。

『私の希望によってプジョール氏はタルレガの「涙」とマズルカ「マリエッタ」を哀愁と感激を以って完全に演奏してくれた。私はそれを聴いて涙を禁じえなかった。その時プジョール氏は「私がこのマズルカを演奏すると恩師タルレガは常に瞳に涙を浮かべられた。このマズルカは重病で死んだ師の愛娘への挽歌であり、その悲しみを師はまざまざとこの曲に刻印された。」と語ってくれた。』【1929・S4・第15号】

   ※エミリオ・プジョール(1886~1980)はタルレガ直系の弟子でタルレガ

    奏法を今日に伝えた。ギター史研究者としても知られる。夫人はマティルデ・ク

    エルバスでフラメンコギター奏者。ピエール・ファン・エスはオランダのギター

    リストでプジョール夫妻に師事した。下の写真は『アルモニア』に報告され

    上記訪問記に寄せられた貴重な一枚。『アルモニア』第19号の口絵。

 

 

 

 

 

 

 

 

【写真】左からファン・エス/プジョール/クエルバス    (プジョール夫人)

 

【写真】はがきの表書き↑ とP.ファン・エス(1929年)↓

 

     澤口忠左衛門の最初の作品『秋のうた(落葉)』(マンドラとギター)が添付楽譜として発表された。【1929・S4・第16号】

     仙台アルモニア合奏団の第5回演奏会(昭和4年6月)は『(午後)九時盛会裡に閉会。聴者七百。プログラムを置き捨てたるもの十五。』であった。【第16号】

※演奏会は大体現在と同じ時間(午後7時~9時)に終始したようだ。会場は仙台市公

 会堂(現仙台市市民会館)。プログラムを“置き捨てたるもの十五”が多いか少

 か、議論(?)のあるところ。

 

 ◇     セゴヴィア来朝記念号の口絵と巻頭言 【1929.S4・第17号】

     17号は『セゴヴィア来朝記念號』を謳い枚のセゴヴィア近影を掲載している。『アルモニア』誌では特別に写真入り巻頭言となっていて短文ながらその興奮振りが伝わってくるようだ。誤植を恐れ『アルモニア』原本を複写した。なお1929年来朝当時セゴヴィアは36歳の青年である。

     戦前は外国から日本に来ることを“来朝”と表現した。「天皇の朝廷のある日本を訪れる」からである。日本に帰ることは“帰朝”と言った。戦後は来日“”帰国“と表す。

     セゴヴィアの来演と其影響(澤口忠左衛門)より

  奏技巧―――彼の技巧は結局技巧だけに落ちない。観せ物として の技巧は全然な

         い。

  レパートリー――彼に感興を得ないものは遠慮なく省かれる。自己を知っている事は

         無駄を省くことである。

          音色の変化―――彼のギターより出す驚くべき音色の変化、これはレコードでは判ら

                 なかった。

          使用絃―――①~③絃をガット,④~⑥絃を巻線(金属弦を絹線で巻いたもの)楽器は

                 ラミレスとハウザーとのこと。【1929・S4・第18号】

     当然、澤口も東京でのセゴヴィア公演を聴いた。この感想を読んだだけでも澤口の的確な鑑賞眼が伺われる。

     「通信」欄より

大阪でR.M.G.主催「セゴヴィア氏歓迎茶話会」が開かれ60余名参加。セゴヴィア氏より『教則本はアグアドのものを使うこと。次にジュリアーニの右手の練習をし、それからソルの全部について勉強して下さい。絃はガット絃を用いること。音楽に対して常に感激を忘れないこと。』とのアドバイスがあり、他に、タルレガの息子は今ドイツで数学の先生をしていること、ギターはミュンヘンのヘルマン・ハウザーが一番よいこと、が話され、大阪での第一夜の演奏楽器は1928年製ハウザーだったことが判明した。【第18号】

     「編輯後記」より

本邦の斯界は最早他国の模倣であってはならない。我々の音楽でなければならない。それにはもっともっとの深さが必要である。深さを養え。そしてもっと足下を見る事。其の上で清算すべきものは清算するのである。【第18号】

     編輯後記は無記名だが澤口が書いている。いろいろ当時の日本のギター界の過去と現在を暗喩している短文だ。逐次の解説は長くなるのでここでは省く。

      セゴヴィア来朝をきっかけとして澤口の邦人ギター曲の発掘・啓蒙を自ら先頭

      に立って進めるのである。  

     「雑録」より

一月下旬(注・昭和5年)よりマンドリン、ギター教授所を開く予定。之はアルモニアの本年度事業の一部である。【1930・S5・第19号】

     小西誠一氏の『にっぽんぎたあ史』(現代ギター誌・第23号(1969年2月号所収より抜粋)には、

   “――――(中略)中でも強く心を打たれたのは彼の犠牲的精神、も一ついうと

    奉仕の精神――音楽に対し、楽徒に対する奉仕の精神である。「アルモニアを

    何冊か読んだ時私は、こりゃ赤字だなと思った。そこで彼に近かった友人に聞

    いてみると果たしてそうだった。彼の教授所はいつも赤字だった。これは昭和

    5年に開かれた彼の教授所のギター部を担当した酒井富士夫君の話である。

    ―――(中略)彼のギター曲やマンドリン曲の出版の企画はまったく採算の取

    れないものだったというが、それでも彼は楽徒のためにそれを強行したとのこ

    とである。――――”とあって、澤口のいう音楽事業は、むしろ慈善事業に近 

    かったのではないか。――――(後略)

    「ギターに於ける同音の研究(一)(大河原義衛)」より

  ―――古来ギターが色彩的な楽器であるとされ、そのよき曲の立派な演奏に在っては、

  少きアンサンブルを聞く気持ちを与えることは、ギターの失ってならない宝玉である。

 (中略)ギターへの作曲の困難な事は伝えらるゝ所であるが、この楽器の使用法、即ちギ

  ターの楽器法の明らかでない事は、この困難を一層困難に落入らしむる一つの原因では

  無いかと思う。ギター曲の外廊のみをつけた曲は、之をしばらく置き、真にギターの楽

  器的効果を与え得る曲を作る為に、ギターの楽器法の完成は必然的に生るべきである。

  ―――【1930・S5・第20号】

【写真】大河原 義衛 (サイン入り)

     大河原義衛は当時の日本を代表するギタリストで作曲家。やや文章は生硬で読みにくいが言わんとする所は普遍的で頷けるものである。

     文中、「少き」は「小さき」の誤植か。「ギター曲の外廊のみをつけた曲」とは「メロディに伴奏を付けた様なありふれたギター曲」の意味であろう。また、ここでいう所の「楽器法」とは、その楽器の機能性に立脚した演奏法と理解される。ギターを演奏した経験がなくてギター曲を作ろうとする作曲家にとっては、このギターの「楽器法」ほど難解なものはない。古来、幾多の大作曲家がここで行く手を阻まれたといっては過言か。かろうじてセゴビアという「楽器法」に秀でた<ろ過装置>によって、幾人かの作曲家がギター曲なるものを作出することが出来たのは大いなる幸いであった。

     「現代独墺のギター音楽」(澤口忠左衛門)

―――ギター界に於ける二つの大きな傾向、西班牙を中心とする独奏楽器としての、独墺を中心とする室内楽楽器としてのギターは、群小傾向に対して優に君臨する所と思われる。―――(中略)前者のギター室内楽において、ギターと他系弦楽器、管楽器他とのコンビネーションそして、ギター系楽器とのコンビネーションの二つに大別される。ギター系の楽器とは、テルツギター、プリモギター(普通のギター)、クイントバスギターを指す。―――(中略)(以下現在ギター系室内楽として独墺で活躍しているグループを列挙)―――「ミュンヘン・ギターカルテット」「ミュンヘン・ギタルレ・カンマートリオ」「ウィーン・アカデミイ・ギタルレクァルテット」「ウィナー・ギタルレ・カンマークァルテット」「アルト・ウィナーカンマークァルテット」「ライズナー・クァルテット」「ウィーン・ギタルレ・ストライヒトリオ」【第20号】

   ※下線は編集子(湯下)が付けた。原文どおりだが判りにくい表現だ。要するに二大潮流だと言いたいのだろうが、このような明らかに翻訳調の文は澤口の外国語学習が如何に短期間での習得であったかを物語っているように思える。

   (注)クイントバスギター・・・普通のギターより四度低く調弦される。この頃発明

      された。6弦と7弦がある。

【写真】ミュンヘン・ギタークァルテット

               1912年以降活躍せるギター四重奏団で、アルバートの第1四重奏曲が初演せら

            れた。メンバーは左端よりアルバート(第テルツギター)、プエーク(第2

                        ルツギター)、ケルン(クイントギター)、レンシェ博士(プリムギター)。プエ

                        ーク氏は現在『ギターの友』の主筆として又『ギターと其巨匠達』著者として

                        知られる。各ギターの型体が異なっているが、実質は同一物である。殊にテルツ

                        ギターがリラ型で、其上番外絃を持っているのは面白い。創設当時の写真であ              る。                                         (第32号写真解説より)

     「独逸ギター界概観」(ES.ライフリンゲンからの寄稿)

(要約):1919年『ディ・ギタルレ』と『ギターの友』の2大ギター専門誌が創刊された。この年より毎年10月にベルリンでギター・ラウテ奏者の『音楽祭』が開催される。スペインからプジョール、セゴビア等ドイツからルイゼ・ワルカー、ハインリヒ・アルバート、ライフリンゲン等が参加した。この音楽祭での演奏でセゴビアの名声は高まっていったという。【第20号】

    ※澤口忠左衛門は積極的にドイツ・オーストリアとの交流を図った。『アルモニ

     ア』に発表される海外のギター音楽情報は、こうした交流からもたらされるタ

     イムリーでホットなものであった。また、澤口はドイツからの一方的な情報輸

     入ではなく、日本のギター曲の紹介、活動状況の報告、『アルモニア』誌の寄

     贈など出来る限り日本の情報を伝えようと努めた。ただ、『アルモニア』の寄

     贈では、日本語のまま送るため、彼の地の関係者から“送ってもらって有りが

     たいが日本語が読めない…”など「苦情」が相次いだが「改善」した様子はな

     い。学ぶべきは学ぶが決して卑屈にならない、こうした態度はまぶしい限りで

     ある。戦前の日本人は背筋が伸びていたのだ。

     「雑録」より

・大河原義衛氏ギター独奏会開催 来る四月二十五日夜丸の内保険協会にて。フェレール、ソルの作品外「花束」「練習曲」「夢」「香煙」「物語」「別れの唄」等の自作品の外、武井氏の「タルレガに捧る曲」「落葉の精」「軒訪るゝ秋雨」及澤口氏の「ダンツァ」等の本邦作品を演奏。【第20号】

     『アルモニア』誌に初めて登場する大河原義衛の演奏会に関する情報である。この頃から澤口忠左衛門と大河原義衛の関係は密接なものとなり、澤口は『アルモニア』を通じ大河原の自作品の出版を手がけるなど、広く本邦の愛好者に向けて大河原義衛という気鋭のギタリストを紹介していくのである。大河原もたびたび仙台を訪れ、演奏会を開くなど澤口らと親睦を深めている。

     「ギターに於ける同音の研究(完)(大河原義衛)

――――楽器としてのギターは根本的にアルペジオ楽器であるとは否み難いことである。であるから凡てのギター曲の基本となるのはアルペジオであると云える。―――(中略)ギターは単に旋律に和声を盛り上げいたづらに拡大を計ることはギター本来の性格にそむくものであって、ギターは其旋律の奏さるる事が一つの和絃を築く事と成るのが本質的性格ではなかろうか。即ちこの理論から出発したギター曲が真のギター曲を持ったものではないかと思う。(後略)【1930・S5・第21号】

     ギターにおける同音という機能に注目し、ギター本来の、独自のものとは何かを追及した論文である。彼の到達した結論は“ギターに於いては旋律を弾くこと自体が和声を潜在させているのであるから、過度な和声付けは避けたい"ということのようだ。シンプルさはギターの音色を最大限に引き出す大事な作曲態度である。(以下、編集子の独断を続けますが異論、誤りの指摘等は大歓迎です。遠慮なくメール下さい。やりとりは原則としてすべて公開します)

     「雑録」より

――――「RMG」が廃刊となった。これで武井氏の「マンドリン・ギター研究」と「アルモニア」の二誌となってしまった。――――【第21号】

     RMGは慶應の宮田政夫・向井正らによってほぼ『アルモニア』と同じ頃東京で発行されたマンドリン・ギター評論誌である。ややポピュラーな内容で大衆的な面を持っていた専門誌であったが宮田の病死等で廃刊してしまった。

 

「雑録」より・・・アルモニアあての書簡<オルトナー(ウィーン)よりの書簡>『雑誌「アルモニア」の寄付を受ける事は感謝の至りであります。前の手紙に書いた如く貴君の写真と経歴を私の専門誌の為に送って下さい。この二つは最近発行される誌に発表する心算です。尚英語若しくは西班牙語で書かれても苦しくありません。貴君は私の写真をお気に入りでしょうかしら。私は「アルモニア」最近号に最愛の友人エミリオ・プジョール氏及マティルド・クエルバス夫人の写真の出たことを此上なく喜んでおります。この二人は実に大芸術家としてばかりでなく、人として非常に優れたものを持っております。日本の斯界に就いて時々ご報告していただきます。(1930年2月26日ウィーンにて)二伸、日本の奏者はどんな楽器を使っておりましょうか。』【第21号】

【写真】ヤコベ・オルトナー

     ヤコベ・オルトナーは1879年オーストリアのインスブルグ生まれで1924年国立アカデミーギター科教授に就任、多くのギタリストを育てた。中でもマティルデ・クウェルバス(プジョール夫人)、ビックフォード夫人、ルイゼ・ワルカーは特に有名である(なぜか人とも女性)。また『墺太利ギター時報』の主幹としてギター音楽研究の分野でも当時の第一人者であった。

<ライフリンゲン(ベルリン)よりの書簡>『日本を初めて訪れたギター演奏家セゴヴィアの演奏会に日本のギタリストは甚だ大なる感動を受けたでしょう。私はセゴヴィアがハウザーのギターで演奏したことは信じる事が出来ません。セゴヴィアは二つの頗る良い西班牙ギターを持っています。それはラミレスとヘルナンデスの楽器です。ハウザーは独逸に於いては殊に評判が悪く、そしてチテル製作所の其ギターの音色はかさかさした音を持っています。恐らくセゴヴィアがハウザーを使った事は何かの間違いと思われます。ラコート型ギターは旧式なモデルで形も音量も小さ過ぎます。最もよいギターとしては疑いもなく西班牙ギターです。(後略)』【第21号】

     シュヴァルツ・ライフリンゲンはベルリンにおいて専門誌Die Gitarre『ディ・ギタッレ』を発行、ギター評論・編曲など活躍した。またギター製作においてもハウザーに対抗してスペインのトーレス型ギターを主張し、当時のヨーロッパで楽器論争を巻き起こした。アルモニアには寄稿だけでなく欧州のギター文献を紹介するなど重要な役割を果たした。

    ※ ライフリンゲンの写真は本資料中に見当たらず掲載できなかった。

     雑録」より

大河原氏6日来仙、HKより同夜ギターでモリノのソナタ、武井氏の曲、自作曲、澤口氏のダンツァ等を放送された。・・・夕刻アルモニア有志の茶話会を政岡屋三階で開く。・・・同氏は其夜帰京された。

その折り大河原氏と語る。楽器は宮本金八作、1927No.10。モデルは不明だがラコート型より幾分小さい。ヴァイオリンなどとのアンサンブルにおいては音量が小さ過ぎるとのこと。鈴木製ラコート型ギターに対して形の小さい点と、音量の二つの点から賛成されなかったが、暗にライフリンゲンの持論と符合しているのは面白い。大河原氏は現在我国で第一の問題は奏法上の研究であって、楽器の問題は其次であると言われたが、氏の此意気と闘志を心良く感じた。・・・セゴヴィア来朝に際して大河原氏は面接の機会を持たなかったそうであるが、唯其演奏に接した丈で、氏程セゴヴィアを見、セゴヴィアを識り、セゴヴィアを学んだ、セゴヴィアを取った人は少なかったかと思う。・・・【1930・S5・第21~22号】

     大河原義衛とのギター談義である。「茶話会」とあるからアルコールは出なかったのだろうか。余計な心配?だが。HKとは現在のNHK仙台放送局のこと。また彼は夜行列車(懐かしい響きである)で帰ったようで、当時としてもかなりの強行軍である。

 

◇「ギターとギター絃漫考」(EOS)

 <要約>セゴヴィア来朝以来、ギター絃の問題が再燃してきた。外国製のガット絃

  は日本の多湿風土を考慮に入れず製作されるため、音色・音量を著しく低下させ

  てしまう。更に耐久力がない。だが銅鉄絃よりは本質的に優れている。また、本

  邦で使用されている多数の銅鉄絃使用ギターは機械的糸巻と狭い棹の巾とによっ

  てガット絃の使用が害される。・・・ガット絃は西班牙型ギター、トルレス、ラ

  ミレス、ガルシア、またはそれらのモデル、に適合しているが逆にこれらの楽器

  に銅鉄絃は適合しない。【1930・S5・第22号】

     当時のギター絃は銅鉄からなる金属弦がほとんどであった。セゴヴィアの演奏を間近に見聞した日本人達はガット弦の音色に酔いしれ、ガット弦使用を真剣に考えるようになる。特に澤口忠左衛門はガット弦使用を強く主張し続けた一人である。

     執筆者“EOS.”は今のところ誰のことか不明である。資料整理が進めば解明されるであろう。

          「通信」(外国よりの書簡)

  ・クラミンスキー(VKraminsky 、在ロンドン)――The Philharmonic Society of

     Guitarists――より

  『拝啓 貴名及事業をミュンヘンのプエーク氏に(から)承知いたしました。就いては

  御発行になられる誌を吾々のソサエティの為に1929年一月より現在(の号)まで御

  送り願います。(吾々の)会長は言語で表わせない程豊富なトーンを持つ有名なパセル

  ブスキイ(注1)のギターを持って居ます。会長ペロット(APerott)氏はロシアのギタ

  ー大家レペドフの門下です。吾々は目下カルカッシの教則本を使っております。然し

   (いずれ)西班牙の教科課程を取る考えです。・・・』(原文英語)

・ヴァン(ファン)・エス(PVan Es、在ロッテルダム)

  『貴誌有難う存じました。又貴下が私の親友、オルトナー教授に贈られた麗わしきギ

  ター曲「ダンツァ」(注2)を喜ばしく拝見いたしました。それに対して私は貴下に

  新作のギター独奏曲()同封御送()いたします。・・・』(原文仏語)【第22号】

   ※澤口は仲間の高橋功らと共に得意の語学力を活かして、海外のマンドリン、ギター

    関係者へのアプローチを続けている。これ等の書簡はその一部に過ぎないが、ラ

    イフリンゲン(前掲)やヴァン・エスといった当時のヨーロッパの大家たちと互いに

    情報交換を積極的に行なっている様子が見て取れる。

    他にマンドリン関係としてミラノのヴィツァーニ氏、ウィーンのフラドキイ氏より

    の書簡も掲載されている。

     (注1)パセルブスキイについては、澤口らは“知らない人物だ”とのこと。

    (注2)澤口忠左衛門のギター曲の代表作。

◇「雑録」より

     大河原義衛氏と前田璣氏とのギターとヴァイオリン二重奏の演奏会は10月17日に

      変更となり「ソナタの夕」として日本青年館(東京)にて開催。曲目はジュリアーニ

      の大奏鳴曲作品85(本邦初演)と小二重奏曲作品77、及びモリトールの大奏鳴曲作

      品5番、3番を演奏、盛会の由。【1930・S5・第23号】

     この会は同年9月23日の予定だったものである。前田氏は新交響楽団のコンサートマスターとして著名なヴァイオリニストだった。「新交響楽団」は1926年近衛秀麿らによって結成された。NHK交響楽団の前身である。現在、同名のアマチュア楽団があるが無関係。

◇「雑録」より(アルモニア文庫開放)

     <要約>『アルモニア』の楽譜コレクションを誌友に送料実費程度で貸出す旨の広

     告。まずマンドリンデュオ曲から始め、いずれギター曲もとのプラン。【第23

     号】

     ※『アルモニア』の様々な事業の中でも特筆すべきもので、当時としても、この

    ような奉仕活動は愛好者・研究者にとって斬新かつ有益なものであった。

◇「弾絃風景」より

   <要約>マッカーフェルリ(注1)が日本コロンビアよりレコードを2枚出した。1枚

   はグラナドスの「西班牙舞曲第五」(リョベート編曲)とバッハの「クーラント」(

   ゴヴィア編曲)、他の1枚はレコード解説には作者不詳としてあるが、ルイジ・モッ

   ツァーニの「過ぎ行く聯隊」と「主題と変奏」。マッカーフェリはイタリアのギタ

   リストでレニアーニ~モッツァーニの流れを汲んでいるようだ。「主題と変奏」

   は「フェステ・ラリアーネ」のことで2枚のレコードの中では一番良く演奏してい

   る。【1930・S5・第24号】

     (注1)Mario Maccaferri(1990―1990)はイタリア生まれ、のちパリ、ロン

      ドンと居を移す。ギター演奏・講師を経てギター製作を手がけ、ギターへ

      の様々な革新的なアイデアを実現させた。特にジャズギターやスチールギタ

      ーの改良で一時代を画した。